上杉謙信:最高の戦神、最高の頭脳、最高の人柄で上杉家を強国に育て上げた名将

軍神・上杉謙信。生涯でおよそ70回ほどの戦に出陣したうち、負けたのは2回だけ(※諸説あり)のみという勝率の高さから「軍神」とも呼ばれる。敵陣に謙信自ら突っこんでいったり、誰も思いつかないような戦略を取るような大胆で豪快な性格で、戦術の天才だったと言われています。また、仏教への信仰が厚く、「大将は、仁・義・礼・智・信の五常(=儒教で説く5つの徳目)を規範とし、慈愛の心をもって領民を大切にする」という考えも大切にし、内政にも秀でた、強さと優しさを兼ね備えた武将です。
強さ・優しさ・信仰心を身につけた謙信の生涯
1530年1月21日、越後の春日山城(現在の新潟県)に、守護代を務めていた長尾為景の次男として生まれました。謙信は、幼い頃から他の子供と比べて体格が大きく、相撲や太刀打ち、組打ちなどを好んでいたと言われています。また、子供の頃から、大人に説くような教えでも、しっかり理解できる頭の良さで周囲を驚かせていました。また、林泉寺(現在の新潟県)に入門し、禅や兵学などを学び広い知識と信仰心を培っていきます。
春日山城跡は、戦国時代の名将、上杉謙信の居城として知られています。日本の城百選の一つで、国の史跡にも指定されています。複雑な自然地形を利用して堅固に築かれ、難攻不落の古城と言われていました。現在...
戦後時代の名将・上杉謙信の祖父である長尾能景が、父・重景の菩提を弔うため1497年に建立した寺院です。ここで謙信は名僧・天室光育の厳しい教えのもと、7~14歳までを過ごしました。戦国の武将の中で...
わずか13歳で元服し、14歳にして(※15歳の説もあり)、初陣で討伐してしまいます。謙信は兄・晴影によりその力を認められ、謙信が長尾家の家督を継ぐこととなりました。
それからというもの、上杉謙信の人生は戦の連続でした。宿敵であった武田信玄、また天下統一を志した、かの有名な戦国の覇王、織田信長との戦いは、常に死と隣り合わせの日々であったことは想像に難くありません。
そして、謙信は49歳の時に春日山城の厠で倒れ、死去しました。謙信といえば、お酒と塩辛いおつまみが好きなことで有名で、死因は高血圧のために脳卒中を引き起こしたとされています。これも謙信らしいと言える、人間味のあるエピソードです。
死後、甲冑を着せたまま大きな甕に入れられたと言われており、お墓は林泉寺、上杉家御廟所、といくつか説があります。
ことわざに残る謙信の義理堅い言葉
謙信は、仏教の仏神「毘沙門」を熱心に信仰していました。
「私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す」という名言も残しており、義理人情に厚い人物としても有名です。戦国武将のなかでは珍しく、僧としての一面が色濃く出ている武将です。
そんな謙信の性格を表すエピソードがあります。
『敵に塩を送る』ということわざは、「敵対している相手が苦しんでいる時、争いと直接関係のないことに関しては援助をする」という意味です。
謙信の宿敵と言われた武田信玄の領地、甲斐と信濃は内陸なので塩が採れません。信玄と敵対していた今川氏真は武田領内への塩の販売を停止しました。塩が手に入らないとなると信玄領の領民は窮地に陥ります。しかし、謙信は宿敵である信玄にも、塩を買えるようにしました。損得を考えず、正々堂々と戦う。謙信の心の在り方から、この言葉が生まれたと言われています。
謙信の辞世の句
そんな謙信の辞世の句は、2つあります。
「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」
訳:49年の生涯はひと眠りの夢に過ぎず、この世の栄華は一杯の酒に等しい。
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
訳:私が死んだあと極楽に行くのか地獄に行くのかはわからないが、私の心は、雲のかかってない月のように、一片の曇りもなく晴れやかである。
謙信が大のお酒好きだったと分かる句です。戦では天才的な強さをもつ謙信ですが、和歌を詠むことが非常に上手く、琵琶を弾く趣味をもったり、源氏物語を好んでいたりと、文化人的な一面ももっており、万能な人物でした。
謙信ゆかりの地
上杉神社
上杉謙信を祭神とする神社。稽照殿には、毘沙門天画像・上杉謙信画像・武田晴信討伐祈願文・日の丸の軍旗など、謙信ゆかりの遺品がたくさん所蔵されています。
Uesugi Jinja Shrine is dedicated to the great warlord Uesugi Kenshin, who never lost in the war d...
塩の道
謙信が信玄に塩を送った、“敵に塩を送る”の言葉の由来になった場所。日本海に面する新潟県糸魚川市から長野県の中信松本市までに及ぶ全長120kmの道です。
日本海に面する新潟県糸魚川市から長野県の中信松本市までに及ぶ全長120kmの道。昔は、沿岸部で採れた塩を内陸部に運ぶために使用されていました。かつての武将・上杉謙信が宿敵である武田信玄に塩を送っ...
弥彦神社
弥彦神社には、1564年に、謙信が関東・信濃川中島・越中へ出陣する正当性を主張した祈願文が納められています。戦国の乱世において、謙信だけは正義と潔白を重んじた武将であったことが分かります。
弥彦神社は新潟県で最も格式の高く、古くからの歴史を持つ神社です。弥彦神社には「万能の神」といわれる神様が祀られており、地域の商売繁盛にご利益があるとされています。神秘的な "火の玉石 "をはじめ...
イベント
米沢上杉祭
上杉謙信と武田信玄の、戦国史上最大の死闘と言われた川中島合戦が再現されるお祭り。上杉神社にて5日に渡り開催されます。謙信の命日である4月29日の開幕祭から始まり、武てい式、甲冑行列、川中島合戦などの催しが盛大に行なわれます。総勢700名の激突、火縄銃の迫力に詰め掛けた大勢の観客の歓声が沸き起こります。
謙信公祭
8月には、春日山城史跡広場で、謙信の武勇と遺徳を称える謙信公祭が開催されます。鎧兜に身をつつみ、槍刀を持った勇壮な武者たちが練り歩く「出陣行列」や、まるで映画のストーリーを見ているかのような、迫力満点の「川中島合戦の再現」が見所です。
想いの込められた前立て
上杉謙信が使ったと言われる兜は、なんと10種類もあったそうです。最も有名なものは、太陽を表す「日輪」と「三日月」の前立てがついたという兜です。伊達政宗の兜の前立てには成功と守護を意味するスタイリッシュな三日月がついていますが、謙信の兜は三日月にプラス太陽(日輪)がついています。謙信は軍神である毘沙門天を信仰していたため、信仰のモチーフとして、太陽と月を前立てにも使ったといわれています。また、被った時の右側が短くなるのは、弓を構えたり、太刀を振りかぶったりするときに邪魔にならないためと言われています。
日本では、5月5日を子供の日と呼び、家の後継ぎとして生まれた男の子が、無事成長していくことを祈って五月人形(鎧や兜のこと)を飾る風習があります。戦国時代の武将を模した兜は武将にあやかって「このような子になってほしい」という気持ちを反映するものです。強く優しい謙信の生き様が人を惹きつけるのか、謙信と同じ前立てのついた兜をつけた五月人形も多く見られます。
現代に蘇る"ボトルアーマー"
「成功と守護」の意味が込められた太陽と月の前立てが輝く、上杉謙信の甲冑が、職人の手により、ボトルアーマーとして蘇りました。お酒などの瓶にかぶせる小さな甲冑です。一つ一つのパーツを手作業で製作しており、非常に精巧な作りとなっています。
Bottle Armorでは、言葉では伝えきれない気持ちを込めて大切な人に送ることができます。
出生祝いやお子さん・お孫さんの入学祝い、また二十歳の記念日のプレゼントとして人気です。
*皇太子様の結納に納められた桐箱を製作した一流職人の手による、特製桐箱にパッケージされ、高級感が漂います。
サイズは3種類
• 一升瓶ボトル(40 cm / 1.8L)
• ミニボトル (37cm / 750ml)
• ミニゴールドボトル (37 cm / 750ml)
参考:
List01
List02
List03
List04
シリーズ・実像に迫る014 戎光祥出版株式会社
Sponsored Links